2015年12月26日土曜日

高校3年生の女の子のこと



2011年7月のことだ。

私は初めての町で行き先を見失っていた。
よくある田舎の住宅団地で、家と家の間には畑があるような、間延びした印象の特徴のない場所だ。家の古び方はどれも同じぐらいなので、30年ぐらい前に地ならしをして一気にたくさん建てたのだろう。
住宅団地の脇を流れる細い川づたいに歩いて、一軒ずつ表札を見ていったが、目当ての家が見つからなかった。地図を見直して、いったん、一番わかりやすい目印の児童公園まで戻った。
ひと気のなくなった町の公園は、背の高い草で覆われていた。草をかき分けてベンチに座り地図をよく確認したが、やはりこの川づたいに行くので間違いはないようだ。となると私が目当ての家を見落としているということになる。
もう一度ここから、見落とした小さい路地や家がないかを確認しながら一軒づつしらみつぶしにしていくのかと思うとげんなりしたが、先のことを考えないように、目の射程距離を落として、なるべく遠くを見ないようにしてまた川伝いに歩き始めた。
この日は曇りで、 厚い雲はこの町の人家や電柱や木、歩いている私などから影を奪っていた。

津波のあったこの町に来たのは初めてだった。所属している雑誌のための取材は昼の早い時間にあっけなく終わった。一緒にレンタカーを借りて行動しているカメラマンに、私ちょっと行きたいところがあるんです、と言って、その町の駅前で降ろしてもらった。日が落ちたら……そうですね7時にしましょうか、そしたらまたここで。私はそう言って、車のドアを勢いよく閉めた。駅の中を覗くとホームには電車が止まっていて、車両の電光表示板に行き先が示されていた。地震の日からずっとここに止まったままなのだ。


駅を背にして国道を進むと、よくあるチェーン店が並ぶ風景が現れて、ここだけを見れば私が育った埼玉県三郷市と街並みはあまり変わらない。ただ、ほとんどの店は閉店していて再開の見込みはなさそうだった。30分ほど歩いて直進して、北側の小さな路地に入った。

また圏外だ。
千葉県から青森県までの南北に500キロの範囲に来たという津波のあった町の、八戸から北茨城までをすでに回っていたが、いつも私のSoftBankのSIMカードが刺さっているiPhone3は使えなかった。
ナビ機能も使えないので、ごく大まかな情報しか書き込まれていない紙の地図を頼りにするしかなかった。

私がこの町の彼女を知りたいと思ったのは、5月初めのことだ。滞在していたホテルにあった新聞の小さい記事を読んだのだきっかけだ。

津波の被害があったその町でも、安置している身元不明遺体の保存状態が限界を迎えつつあり、ついに焼却を始めた。焼いたのはすべて津波の被害による遺体のはずだった。ところが、一体だけ、そうでないかもしれない白骨があり、それが彼女のものだった。
当時高校3年生だった彼女は、この町に津波が来る前の2月中旬のある夜、家族に「友達に会いに行く」と言って家を出たまま行方不明になっていた。
彼女が会いに行った相手は20代前半の男性で、男性は警察から事情を聞かれた直後に自殺した。彼女の捜索願が出されて数日後のことだった。彼女の行方不明事件と男性の自殺は全国紙でも報じられたが、私はこの時はこの記事を読んでいなかった。

次に彼女について記事になったのは5月初旬のことで、その記事を私は見たのだ。彼女の遺体は4月下旬の一斉捜索で発見されたが、損傷が激しく、肉親などからの照会もなかったため、町が誤って焼却をしてしまったのだという。

そのため、彼女の死因や、おおよその死亡時刻などを知る手がかりは完全に失われてしまった。

この記事を見た私は、東京の自宅に帰ってから彼女の名前を検索した。

2ちゃんねるには彼女のスレッドがいくつか立っていて、いろいろな真偽不明の情報が書き込まれていた。
津波が来る前に立っていたスレッドを見つけ、私は1から順に読んでいった。
「まだ高校生なのに夜中に外出するのを止めないような家庭なんだね」
「どうせDQNでしょ」
などという書き込みに混ざって、彼女の直接の知り合いという触れ込みでの書き込みもあった。彼女はすでに卒業後の進路が決まっていたこと。例えばいじめなどにより自殺するような理由は見当たらないこと。彼女が会いに行った男性とは交際中だったが、その日は別れ話をするつもりだったとあった。

Twitterを検索すると、本人のアカウントは発見できなかったが、プロフィールなどから判断して彼女の友人であろう女性のアカウントを見つけた。投稿を2010年の夏ごろまで遡るとそこには彼女と一緒に撮ったプリクラがアップされていた。浴衣姿の明るい茶髪の女の子が可愛らしく微笑んでいた。


新聞記事も集め、記事には彼女の家の住所のおおよその番地が記されていたので、私はそれを手がかりに彼女の遺族を訪ねるつもりだった。

だが家探しは難航した。というか彼女の家のあるエリアは、津波の場所からは少し離れていて無事だったため、避難地域にも指定されてはいないが、自主避難をしている家も多くあり、見つけたところで彼女の遺族に会える保証はない。
また公園に戻って家探しをやり直しても結果は同じだろうし、もうやめようか、多分、「縁」がなかったのだ、と思って駅に向かって歩き始めると、前方からピンクの軽自動車が近づいてきた。あっと思っていると車は私とすれ違って背後の家に入っていった。私は反射的に車を追いかけてその家に走り込み、車から降りてきた初老の女性に声をかけて、彼女の家を知らないかと聞いた。

「あら。ここはこの川の向こうも同じ町内なのよ。Sさんちは向こう側なの」

「そうだったんですか。近くまで来たので寄りたかったんですけど、大体の住所しかわからなくて。だいぶ迷っちゃいました」
「ここから行くと、橋を渡る道がちょと分かりづらいから、乗せて行ってあげるわよ。おばさん、もう用事が済んで暇だから」
遠慮する理由もなかったので、私はお礼を言って女性の車に乗り込んだ。
女性は私が亡くなった彼女とどういう関係なのかを聞いたが、新聞記事とかネットを見て興味を持ったので来てみました、とはとてもいい出せる度胸がなく、「亡くなったXちゃんの知り合いなんですが……、でも家には行ったことがなくて」と消え入るような声で説明した。
初老の女性は「ほんとにねえ、大変だったわよね」と、特に不審に感じた様子もなかった。
「私は、あそこの家のお母さんと知り合いなのよ」と女性は言った。女性の話によると、亡くなった高校3年生の彼女の母親は各家庭を訪問して営業するタイプの仕事をしていて、女性はその顧客なのだという。
「携帯もわかるから、家にいるか電話して聞いてみようか? いなかったら、いつ帰ってくるかも聞けばいいし」と女性が言うので、それはありがたいのだが、頼むと家にたどり着く前に自分の嘘もばれてしまう可能性が高いと思った。私が彼女の知り合いでもなんでもないということは、母親に電話をかわられたら二、三の会話ですぐわかるだろう。そうなったら母親から門前払いされるかもしれない。これまでの経験から言えば、家まで行ってご遺族の顔を見て彼女について話を聞かせて欲しいと頼むのが一番目的に近づける可能性が高いのだ。

「いや……、そこまでしていただくのも悪いですし。というか、ここ、携帯ってつながります? 私のSoftBankだからなのか、全然入らないです」

「この辺でSoftBankなんか使ってる人いないわよ。田舎者はみんなdocomoだよ。ゴルフする人は山でも使えるAU」と女性は言った。

彼女の家は小さい文化住宅で、家の前に白いセダンが停まっていた。

「これは、お父さんの車だね。お母さんの車がないから、出かけているわね。お母さんがいれば私もお線香をあげさせてもらうんだけど。おばさん、お父さんのことは知らないから」
女性にお礼を言って外に出ると、車はUターンしてきた道を戻って行った。

私は彼女の家の引き戸を叩いた。

応答がないので、引き戸をに手をかけると施錠はされていなかったのでするする開いた。私は家の中に向かって大きな声で来意を告げた。しばらく待っていると、玄関のすぐ脇の左の部屋から、男性が出てきた。上下グレーのスエット姿で、40代半ばに見えた。

名刺と菓子折りを差し出して、新聞記事を見たこと、東京から来たこと、まだ記事にするかはわからないが話を聞かせて欲しいことを伝えた。

しばらく名刺を見つめていた彼女の父親は、
「……。そういうの無理なんで」
と、ひとこと言って、私の足元に菓子折りの入った紙袋を置き、部屋に戻っていった。

決着は早々に着いてしまった。


家を出て歩き始めると、少し先に女性のピンクの軽自動車が停まっているのが見えた。

車に近づくと女性が窓を開け「いた?」と私に聞いた。
「玄関先でお父さんと少し話したんですけど……。でも、詳しいことは何も聞けなかったです」
「まあねえ」
と女性は言った。この初老の女性も、彼女のことを詳しく知りたくて、私が出てくるのを待っていたのだろうか。女性は私にまた、車に乗るように勧めてくれた。近くなら送っていくという。
「私実は駅で待ち合わせをしていて。でもまだ時間があるので、駅前でタクシーがいたら拾って、Xちゃんが見つかったあたりまで行ってみようかなと思って」
と私がいうと、
「じゃあ駅まで送るわよ。タクシー、いることはいるけど、少ないから、来ないかもしれないわよ。どの辺まで行くの?」
「Oという所の海べりの瓦礫がたくさんある所で見つかったそうです」
と新聞に書いてあったことを言うと、
「ああ、そこは無理。今は道が封鎖されていて一般車両は入れないのよ」

これで彼女に近づく手段はなくなった。駅前の歩道橋の階段に、待ち合わせの時間まで座って待つか、そう思った。

歩いて小一時間はかかった場所だから、ここから駅までは車でも15分は乗るだろう。さっきから私に親切にしてくれるこの初老の女性の名前も素性もわからないので会話の糸口がなく、私は居心地が悪くなった。
震災がきて、ご自宅の電気とか水道とか大丈夫でしたか、などというこの辺りでは天気の話みたいに当たり障りのないことを幾つか聞いていると、女性が、ああそういえば、と言って話し始めた。
「お母さんに、この前会ったのよ。ボランティアの人たちが、避難所になっている小学校の校庭でお祭りを開いてくれたんだけど。コンサートとかもあってね。出店も出たりして。そこで偶然会ったの。お母さん、仕事を再開するにもこの辺の人たちほとんど引っ越してしまって大変だと言っていたわ」
「そうなんですね」
「うん。で、娘さんのことは大変だったわね、って言ったら、お母さんが、こういう形だけど身体だけでも出てきてくれてよかった、って言ってたわよ」




今日、ふと彼女のことを思い出したので、記憶を定着させるためにここに書いた。とはいえ、起こった出来事の性質を鑑みて、地理関係などは実際にあった出来事を損なわない程度に、多少の虚構を施した。


私は彼女の家を訪ねた3年後に、本を書いた。震災と放射能災害があった場所で出会った人について。

もし、彼女の両親に話を聞くことができて、彼女に何が起こったのか、そのさわりだけでも知ることができたら、私は本に書いていたのかといえば、そんなことはなくきっと書かなかっただろうと思う。それは倫理的な意味でもなんでもなく、書きようがないと思ったのだ。

彼女は私に強い印象を残したが、彼女は震災で亡くなったのではなく震災以前に発生した事件の被害者だから、本にする時に彼女の存在だけほかの人たちから浮いてしまう。また私が主な取材の場所にした福島県双葉郡楢葉町から、彼女の町は大きく離れているので、やはり本にまとめるには無理があっただろう。


でも、と思う。

津波が来る前、何年も事件らしい事件が起きなかったという平和な町で、彼女の存在は町で唯一の「事件の被害者」として孤立していた。

津波はこの町の人間にとって痛恨事であり、それが人智の及ばない天災であるがゆえにやりきれない気持ちを皆が共有していた。


そんな中で、「身体だけでも出てきてよかった」と、彼女の母親が津波に対して持った感情に、本当の意味で寄り添えるこの町の人は多分いないかもしれないと思った。


どんな死に方でも、死は死で等価だ、と言われたらそれまでだが、同じ日に何十体もの遺体とともに発見されたのに、彼女の存在だけが異質なのだ。

震災が来ても、来なくても、だれとも同化できない存在。
高校3年生だった彼女が舐めた孤独は、私の想像を絶した。

震災のあと丸一年が経過するくらいの時期まで、私は彼女が生きて見た最後の瞬間のことをよく考えた。まだ津波でめちゃくちゃになる前の海辺に彼女は行ったのだろうか。夜の浜辺に停めた車の中は暗かっただろう。そこで男性とどんな話をしたのだろうか。彼女は震災を知らない。


彼女がそこで何を見たのか、どうして命を落とす羽目になったのか、もはや何もわからない。

そんなひとりの女の子の死に、少しの記事と、プリクラの写真、見知らぬ初老の女性の断片的な話を通じて触れ、何度も何度も反芻していた時期があったのを私は今日ふと思い出した。